風景としての他人

· 15min · k.o6

風景としての他人

交差点で人とすれ違うとき、その人がどんな人間なのか——現在の職業や家族構成、あるいはその思想や信条に至るまで——を細々と想像したりはしない。ある程度の規模の都市であれば、人はもはや風景の一部であり、ビルの窓から漏れる光の一つ一つを見ては、そこに生活の体温を見出すこともないだろう。

これが、人よりも動物の気配のほうが濃いような田舎道であればどうだろうか。あるいは人気のない深夜の路地裏のように、人の存在がまだ風景の一部となっていない空間であればどうだろうか。

そのような状況において人とすれ違うことは普段のそれと全く別の経験になる。相手を見定めようとしながらも、視線は互いにぶつかることを避けるように虚空をさまよい、通り過ぎた後も緊張感が尾を引くように残っているような感覚を覚える。

顔見知りの中であればまだしも、まったくの他人とそのような環境ですれ違うことは心地の良いものではない。それは単に相手が他人であるからではない。他人であり、なおかつ一人の人間として——犬や猫、あるいは草木や無機物の類ではなく——認識することを迫られるからだ。

他人という存在の不快さの理由はどこにあるのだろうか。それは理解の及ばない存在に対する恐怖ではない。あるいは何らかの具体的な危害に対する予見でもない。

たとえば、カラスが集積所のゴミをほじくり出して撒き散らす、これは確かに不快であり、実際迷惑でもある。そして相手はカラスなものだから、当然話し合いなんて不可能であるし、理解など及ばない存在である。その不快感はある行為とその可能性に対して向けられているに過ぎない。

これとは異なり、他人という存在への不快感は、もしかすると自分に危害を加えてくるかもしれない、という予期に基づくもの以上に、単に存在すること自体への居心地の悪さを含んでいる。他人が風景ではなく、一つの主体としてこちらに迫ってくる瞬間が不快なのだ。

つまりそれは、自分と同程度には——あるいはそれ以上かもしれない——ものを考えたり何かを感じたりする主体がこの世界に存在していること、それ自体への不快感なのである。

このような感覚を率直に告白すれば、異様に自己中心的、ないし自我肥大的な人間だと思われるかもしれない。しかし、他人を単なる風景ではなく、一つの主体として認識したとき、その存在そのものにある種の居心地の悪さを覚えることは、決して不自然なことではないように思う。

訓練される消費者

コンビニがconvenienceたる所以はどこにあるのだろうか。

24時間営業であることか?一人で消費するのに過不足ない量の調理済み食品が売られていることだろうか。あるいは、日用品含めて——特に拘らなければ——最低限のものは手に入れられる品揃えだろうか。

今日ではこれらの要件はコンビニだけが満たすわけではない。スーパーマーケットにしても、24時間営業を始める店舗が登場しつつあり、単身世帯の増加に合わせて惣菜の類も充実してきている。単純な品揃えや、あるいは価格にしても、スーパーマーケットにはコンビニに対して優位性がある。

強いて言うならば店舗数としてはコンビニの方が多いのは確かだ。都市部であればそれほど探すことなく見つけることができるだろう。家から歩いてすぐの場所にあることも珍しくない。あるいは、コンビニは公共料金の支払いや荷物の発送など、単純な小売店以外の役割も果たしているのも事実だ。

しかし、どうもコンビニの便利さはそれだけでは説明がつかないように思えるのである。旅先など非日常の場面は除いて、少なくとも日常的に使用する小売店としては、だ。

コンビニを便利にしているものの正体は、ある種の訓練された消費者ではないだろうか。

スーパーに買い物に行くと、時間帯にもよるが、そこには移動の速度も、視界の高さも、買い物にかける時間も異なる人々がいる。歩みのゆっくりした高齢者もいれば、足元を不意に横切る小さな子供もいるだろう。

入り口に積まれたプラスチックのカゴを取るにしても、前の人の動きがゆっくりであれば、こちらの速度をそのまま押し通すわけにはいかない。買い物の最中も、足元をうろつく小さな子供がいれば注意を払う必要がある。それは不便というより、他人の身体や時間にこちらの振る舞いを合わせる場面が多い、ということだ。

ところがコンビニであれば、そういった些細な気遣いをする必要のある場面に遭遇することはスーパーマーケットに比べればずっと少ない。棚の前をしばしの間占有する若者の集団をたまに見かけるくらいだろうか。

コンビニの顧客は、洗練された消費者として振る舞っているように見える。棚から素早く商品を選び、通路を塞ぐことなく、店員との会話は最小化し、支払いも電子決済で素早く済ませる。客同士が互いに風景の一部となれるように。

生産者・労働者としての訓練は、指摘するまでもなく一般的に行われてきた。品質・コスト・納期の管理は当然のこととして、相手を不快にしないような円滑なコミュニケーションも求められる。

しかし今日では、消費者としての訓練や適応もまた進んでいるように思える。このような消費者としての訓練は、コンビニに限ったものではない。ラーメン二郎の例は極端かもしれないが、コンテンツ産業にしても「厄介」にならないように、「痛客」にならないようにと、消費者としての規律が——ある種自発的にそのコミュニティ内において——生じつつある。単純に迷惑な客やファンの類は以前にもいたはずだが、それらに対する目線は厳しくなっている。「自我」を持ってはいけないのだ。

コンビニやファストフード店の店員が他人であるということを意識することはない。それは一つの機能であり、システムの一部である。それと同様に、もはや客も互いを他人だとは意識していないのではないだろうか。互いに他人であることを忘れられるほどに、客もまたシステムの一部として振る舞うことを覚えてしまったのだ。

広義の無人化

地域の商店街にある個人商店がスーパーマーケットや大型ショッピングモールに飲み込まれつつあったとき、「そこには人との関わりや繋がりがある」とその存続と重要性を——半ばそれが正しくないと知りつつも——訴える人もいた。

しかし、現実には商店街がシャッターに覆われたどころか、ショッピングモールでさえ今度はAmazonに大きく客を奪われつつある。店員と会話する必要もない、周りの客に気を使う必要もない。そして配送の際には置き配を設定すれば、文字通り誰とも関わることなく買い物を済ませることができる。

けれどもそうしたシステムの背景には人間がいるはずだ。倉庫の作業員や荷物の配達員にしても。顔を直接合わせることはなく、特別意識することもないが、その奥には人間の姿がある。風景の一部としての他人は、今や風景の一部でさえなくなりつつある。

買い物はAmazonで済ませ、食事はUber Eatsで取り、それで出たゴミは回収地点に置いておけば誰かが持っていってくれる。生活の厄介な部分は、できるだけ顔の見えないところへ押し流されていく。水洗トイレに至っては、レバーを押すだけでいい。そのような生活の快適さの正体は、その実他人の不在ではないだろうか。技術がもたらした利便性はつまるところ、他人の存在自体の煩わしさを回避しようとすることの具体的な表れかもしれない。

このような便利で快適な社会を生み出した根源的な動機が、他人という存在からの逃避だとすれば——そしてそれは現に望まれたことであるように思える——自らもまた、誰かにとっての他人としてそこにいる余地を失っていくのではないだろうか。

働く場では、他人に不快を与えない労働者であることを求められる。買う場では、流れを乱さない消費者であることを求められる。そしてそのどちらでもないはずの私的な時間さえ、できるだけ他人と関わらずに済むように設計されていく。だとすればいったいどこで、ただの他人として存在することを許されるのだろうか。