忘れられるものとして書く

· 5min · k.o6

小中学生の時に書いた作文の内容の一つ一つを、もう覚えてはいない。しかし、いざ卒業文集やその類を見つけ出して読み返したりすれば、たいていは後悔と恥が混ざったような感情が湧き上がってくる。

思い返してみると、そうした作文は締切に迫られて、その完成度を問わずに否応にも提出しなければならないという制約の下で書かれていた。あの時間の範囲内における精一杯、あるいは妥協がそこにはあった。いずれ読み返すものとして想定されていなかった。

大学の課題レポートにしてもそうだろう。普通は公開さえされないものだから、その一時の要件——単位取得の最低限を満たすこと——さえ満たせばいいものとして書くことになる。

ある締切と要件が設定されていて、それに合わせて書く。そうした緊迫感の中でそれらは作られていた。アーカイブとして残るわけでもなく、書いた本人でさえその内容を、あるいはその存在さえ忘れてしまう。それは記録というよりも痕跡に近く、整理を待つこともない。

「執筆」と呼ぶにはあまりにも贅沢な、ただ「書く」だけのそうした営みが、実のところ創造に最も近いところにあったのかもしれない。

それは週刊連載の漫画や、毎週放映のシリーズアニメに近いのかもしれない。誰もが知るような名作タイトルでも、その一話一話すべてを鮮明に記憶している人は少ないだろう。ある一話が完璧に最後まで作り込まれた傑作として評されることも稀である。しかし、その一話がなければ作品全体は成立し得ないし、それらの総体としての作品タイトルを指して人は名作と賞することになる。

個々の作文やレポートをそうした作品になぞらえることにはいささか抵抗もあるが、その一つ一つの断片——ある人が生み出してきた個々の痕跡——の総体からある人間が成り立っているのだとすれば、これを作品として見立てたくもなる。個々のものを最善に引き上げること以上に、ただ忘れられるものとしての蓄積を繰り返すこと。それもまた人生という作品を作り上げるための道の一つではないかと思うのだ。

その一つの手段として「ノルマ」は世間で嫌われるほど悪いものとも言い切れないだろう。

ノルマは一つ一つの出来を保証するものではない。むしろ、出来の悪いものや、後から見れば恥ずかしくなるようなものまで含めて、とにかく何かを残させる。その意味で、ノルマは一定の量の蓄積を恒常的に発生させるための制度として機能しているのだと思う。そして、その蓄積を遠くから振り返った時に初めて浮かび上がってくる質もあるはずだ。忘れられるものとして書くことは、案外そうした質に近づくための方法なのかもしれない。